オバサンの独り言

 

   移民問題は極めてデリケートなテーマである。政治的に慎重な対応が求められる。

    ドイツ社会への統合政策では社会的・経済的・文化的・宗教的観点を配慮しなければならない。人権保護は言わずもがな。

    極右主義者や極左主義者の扇動に利用されやすいため、国民の反応も感情的になりがちだ。失言して非難の的になる人が後を絶たない。

    社会民主党の政治家で、ドイツ連邦銀行の役員をしているザラツィン氏が著書の中で移民問題を指摘しているが、その内容が本の発売前から大きな反響を呼んだ。移民の中でも特にイスラム系移民がドイツ社会に統合できていない実態を様々な統計とデータで分析、評価したのだ。

    ベルリン都市州の財務大臣だったときから挑発的な発言で有名なザラツィン氏は、「少子高齢化の進むドイツで、教育水準の低いイスラム系移民がその高い出生率とさらなる移入により一層増加すれば、ドイツ経済の発展を担ってきた、ドイツが有する唯一の再生可能リソースである「インテリジェンス」が急テンポで低下する」という持論を展開して危機感を煽った。

    しかも、インタビューでは「ユダヤ人の遺伝子」という発言までしたものだから、喧々囂々たる非難を浴びた。この概念はドイツではタブーである。彼は「人種差別主義者」と「反ユダヤ主義者」のレッテルを張られてしまった。結局、政治的圧力に屈した連邦銀行の解任決定を受けて、彼は自ら辞任した。

    確かに、専門家の間でも異論の余地のある「知能の遺伝」や「ユダヤ人の遺伝子」などの理論を軽率に扱ったことは大いに非難に値するが、挑発的な言葉だけが独り歩きし、イスラム系移民の統合という本来のテーマが二の次になってしまったのは残念なことである。

    彼はイスラム系移民の実情を示すことで、これまでの移民政策の失敗と政治の怠慢を痛烈に批判している。

    社会民主党と緑の党は連立政権時代に寛容的な多文化政策で失敗したが、支持層に移民が多いため、“誤った”寛容政策から脱皮できないでいる。キリスト教民主・社会同盟は人権保護や宗教の自由との関連から法的に異論の余地のある統合政策の強化を躊躇している。深入りは禁物というわけだ。

    大きな暴力事件が起これば、一時的にマスコミが騒ぐが、問題の核心に迫る根本的な対策は講じられない。学力検査結果や中途退学者数、若者の失業率、刑事事件などの統計が発表されるたびに一時的に話題になるものの、宗教と文化の違いという口実の前にお手上げ状態だ。

    イスラム教の宗教関係者や移民団体の代表者を集めて統合会議を開催しても和やかな記念撮影と綺麗事を並べた共同声明が公表されるだけで、政治家の自己満足に終わっている。

    そうこうしている間に、クラスの半分以上(学校によっては90%以上)が移民系で、ドイツ語が外国語になるという“異常事態”に陥る学校まで現れてきた。移民系の子供が圧倒的に多い学校はドイツ人から敬遠されるため、ますます移民系ばかりになる。まさに悪循環だ。

    移民の多い地区のスラム化も深刻な問題である。中途退学して、職業訓練も受けない若者は職業に就く前から生活保護受給者になっている。

    もちろん、学校で、職場で優秀な成績を収め、ドイツ社会に融合しているイスラム系移民もいる。しかし、教育や雇用から落ちこぼれる若者が特にイスラム系移民に多いこともまた周知の事実なのである。

    「知能の遺伝」という不適切な理論は別として、ザラツィン氏は多くの国民が常々抱いている不安を代弁した。世論調査結果が国民の不安を示している。イスラム系移民の問題を十分に認識していても、宗教と文化の違いという壁に阻まれ、追及できないところにドイツ移民政策の限界があるのだ。

    イスラム系移民はザラツィン氏の指摘を侮辱と感ずるのではなく、「移民の中でもなぜイスラム系移民が統合できないのか」を自問すべきではないだろうか。いつまでも原因を外に探すのではなく、内に潜む原因を認識してほしいと思う。

    移民は宗教の自由や文化の相違を盾に権利ばかりを主張して、責任転嫁するのではなく、ドイツに住む市民としての責務も果たさなければならない。ドイツの文化や価値観を尊重しなければならない。

    ザラツィン氏は挑発的に問題提起をした。政治家は言葉の揚げ足を取って本題を逸らしてはならない。イスラム系移民問題にどう対処すべきか、今こそ視点を問題の核心に据えた冷静な議論が必要である。

    「臭い物には蓋」の駝鳥政策ではいつまでたっても移民問題は解決できない。少子高齢化は待った無しで進展している。政治と移民双方の具体的な行動が求められているのである。

2010年9月17日)

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